Unprofessional = 無責任だ

私は、Unprofessionalに無責任と言う日本語訳をあてている。辞書を引いてもそんな訳語は紹介されていない。それは生きた感覚を紹介していないからだ。

2週間ほど前であろうか、私が出入りしている所の人がテレビに出演すると伺っていた。仕事と重なり、生で拝見することは出来なかった。その方が出演後戻ってきて、私に言った「砂川さんのあのエクササイズ、テレビで使わしてもらいましたよ」と。

一瞬なんのことを言っているのかわからなかった。暫く時間が経つと何の事を「あの」と指しているのか判ってきた。私自身がテレビに出るとしても、「あの」ものは紹介しない。それは、ライセンス上の問題があるし、筋を通さねばならない。なのに、「あの」ことについて何も知らない人が、テレビで紹介しているということに、全く意味が解せなかった。その点で全く関係ない人だからゆえに、そういうUnprofessional = 無責任な事ができるわけだが、なぜ事前承諾を求めるという形ではなく、事後報告なのであろうか。どういう順序で頭の回転が廻っているのだろうか?今までもそういう風に他の仕事も進めてきたのであろうか?彼は私といつの間にか暗黙の(私には身に覚えが無い)信頼関係を築いてしまったのであろうか?彼は彼自身だけではなく、会社も代表していること、そして、彼の所属しているところ、関係しているところ全部を代表していることを身を持って解っているのだろうか?わかっているはずが無いのは行動をみれば明らかだ。

Unprofessional=無責任だと思わせることはまだまだある。

以上の事があるが、どういう形でテレビで紹介したのであろうと、ビデオクリップを観てみると、これまた愕然とした。「あの」ものは私が思い描いた「あの」ものとは全く変わってしまっていた。もう「砂川さんのあのエクササイズ」と言えるものは、なかった。完全に自己流に作り変えられていた。「あの」ものが本来持っているエッセンスや「あの」ものが意図してあることを完全に無視して作りかえられていた。似通った形だけで(似通っているだけで、全く非であった)あった。つまり、テレビに出演した彼は、「あの」ものについて何も理解していなかったのである。公のテレビの場で、しかも、民法ではない人様が受信料を支払っているところで、自分の無能さを披露したのである(素人さんにはわからないだろうが)。無能さの披露は、本人の勝手ではあるが、パクリましたと言ったものの、パクル能力もない事を証明した。真似ぶ(学ぶ)ことができないのである。なんという侮辱か。ちゃんとパクリもしないで、「砂川さんの~」と言ってのけるのである。あきれて言葉も出なかった。同じ場で仕事をしておきながら、パクルことはUnprofessional=無責任である。その上、正しくパクレ無いというのは、もっと無責任である。

さらにこれに通じる彼の無責任さは、「あの」ものを私からちゃんと教わった経歴が無いことである。私には一度も彼に「あの」ものを指導した覚えが無いし、彼が「あの」ものを学んだ事を確認した事は一切無い。一度たりとも私のレッスンに参加した経緯も無いと記憶している。学ぶ能力も無ければ、習う能力も無い。私が誰かに施すのを横で見て、それを自分勝手に自分の物にしてしまったことにもある。どうりで、そのエクササイズに託された意味を全く理解できなていないわけである。所詮、今までもそういう風に、自分勝手に物事を良しとしてきたのだろう。だから、平気で物事を自己流に作り変えることができ、その作り変えたものが「あの」ものとイコールだと勘違いできるのだろう。自分の解釈だけで、物事の良し悪しを判断してきたのだろう。幼稚だ。

行動は本当に多くの事を語ってくれる。彼の言葉だけに耳を貸していると、良い青年だと誰もが思うであろう。しかし、行動と言う本質は嘘は語らない。彼の行動は稚拙であり、Unprofessional=無責任そのものである。

空手家の宇城憲治氏はワークショップにトレーナーなどの指導者の参加を認めていないという。なぜなら、ここで書いた彼のように、ちゃんとエッセンスを学ぶことはせず、すぐ使えそうな形だけを真似しようとする安易な人達が多いからだ。宇城氏の場合は、古伝空手の教えから抽出したものを指導しているという。つまり、古伝空手を十二分に学んだ者にしか、それはできないという事なのだ。そして、そのエッセンスを十二分に知っているものだからこそ、それを抽出したものを形を変えて、空手に精通していない者にもわかるように指導できるのである。型をしっかり身に付けているから、自由が展開していくのである。宇城氏の危惧するところを、私は身を持って体験できた(体験させられてしまった)。

型を学ぶ者は形を学ぶことで、型に託された哲学や要素を学んでいくのである。表面的な運動だけを覚えるためなのではない。何百年と受け継がれてきたものの中に託されたものや文化を学んでいくのである。型を無視した自己流は、自由ではなく、勝手である。彼は型を崩した育ち方をしてきたのであろう。彼の受けた?躾の象を顕にしているのだ。

正式に私と契約を結ばないトレーナーやインストラクターは私のレッスンなり、ワークショップには参加することは控えてもらうことにする。余りにも勝手な世の中になった。残念ながら、閉鎖的にさせてもらう。余分な仕事が増えた、契約・誓約書を作らねばならない。
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by somaticcoach | 2007-05-24 10:20