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生きているカラダ(2)

『いくら多くの身振りをシグナルとして理解し記憶しても、瞬間的に無意識のうちに人と人との間に交わされる情報を解読するなど出来るものではない。第一知っているパターンをあてはめて分析しようと意識する瞬間に人間としての対応はすでに遅れ、ふれあう機は去ってしまっている。むしろ瞬間にからだの(こころの)印画紙に焼きついた相手の姿が、あとになって、くっきりと志向の方向や法則を浮かび上がらせてくる、ということがある。そのとき突然その人の全体の構造が見えてくる。・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・そのように「わたし」のからだがまっさらな印画紙であるとき、わたしはわたし自身を忘れており、またわたしのからだは、相手に対応して瞬間に動いています。
 ミエルとかワカルとかいうのことは、自分のからだに、むこうのからだの中で動いているものが移ってくるというか、わたしのからだが共振し始めるというか、その主体の目で世界を見、からだで感じるという、全く生々しい、ジカな体験なのです。』(竹内敏晴)

カラダのパターンやコードをマスターすることが相手を「わかる」「めえる」ことにはならない。相手を分析し考えている時点で、自分の思い込みの当てはめになるばかりか、人間としての対応はすでに遅れ、人間同士が触れ合う機を逸する。テクニックをいくら習って覚えても、相手との関わりに対応して瞬間的に出るものでなければ意味を持たない。つまり、からだが瞬時に対応しているレベルでなければ、「わかり」合うことは無理なのだ。

勿論蓄えは必要かもしれないが、相手といかに関わっていくのかを追求していないもの、相手のとの関わりという現実において磨かれていないものは無に等しいと感じる。自他の融合、『すべてはあたかも、他者の意図が私の身体に住まっているかのように、あるいは逆に、私の意図が他者の身体に住まっているかのようにおこる』(メルロ・ポンティ)である。両者が同調し、二つのカラダが一つの有機体となり、一体となる。競技においても同じであるが、間を制している方に有利に働く。相手に分からないように、先に一体を摑んでしまえば勝てる確立を上げることができる。

このような間をつかみ合う勝負をしていた頃の野球は面白かった。観客も身を持ってそれを理解できるレベルの高い人が多かった。しかし、今は一般の人(観客)も選手も間や相手と同調するという感性が弱くなっているために、力と力の勝負という形で訴えかけないと、人気が出ない。どうみても茶番劇にしか見えない格闘技に人気が集まって、野球の人気が低迷しているのもそのためだと推測している。体が大きい人に有利である現状は、あまりにも当たり前過ぎるが、日本人の伝統的感性では当たり前ではない。また、相撲の勝負も間の美学の典型であったのが、格闘技化してしまったために、今場所も客の入りが非常に落ち込んでいる。日本人力士が居る居ないの話ではない。力に訴える外国人力士の増加と日本人力士の独自の感性の低下にあっては、日本人の客を惹きつけることは出来ない。ラスベガス興行が盛況で、日本の興行がそうでないのは理解できる。朝青龍は日本人以上に日本人的だ。それについていけない日本人力士がいるという現実が情けない。日本国籍を持っているだけであって、中身は日本人ではないということか。

柔道もそうだが、スポーツの国際化は大いに結構だが、日本人の感性を売り渡す必要は全く無いし、むしろ日本感性を生かすことの方が生き延びていく道は開けてくる。さもなければ、身体を壊す柔道、力柔道でしかない。そういうのは柔道とは呼べない。力(衝突)勝負の時代は終わっている。時代遅れにならないように!----やっぱり鎖国かな。日本が地に根を生やした自力を回復するまでは・・・。
by somaticcoach | 2005-11-23 10:53