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高校野球

高校野球も終わりました。球児(過去の球児も、現在の球児も)にとっては、秋の始まりです。兵庫県では秋の県大会に向けての地区予選も始まりました。

今年の高校野球を見ていて、勝負がエラーで決まるケースが多かったという印象を受けています。特に、悪送球が勝負を決める得点に繋がったケースが多かった。これが何を意味するのかさっぱり分かりません。これが、近年の傾向なのか、ただそういう大会だったとだけ言えるだけなのか。まあ、高校生の野球ですから、思い切ってプレーしてミスをしてくれれば何の文句もありません。そこから、一歩一歩上手くなっていけばいいのです。

しかし、トーナメント方式で試合が行われると、そのミスを取り返すチャンスが永久に巡ってこないということもあります。今という時はこの瞬間にしか在らずということをカラダで学ぶいい機会ではあるのですが、そこ(直ぐにミスから学び、成長することができないところ)が、トーナメントというあくまでも勝利追求型形式の欠点なのです。ゲーム経験を増やしたり、選手の力を最大限に伸ばしたり、野球の深みというかゲームそのものの楽しさを追求するとが達成しにくいゲーム方式であるといえます。勝つことに拘るあまり、策を重視し個の成長が軽視されてしまう。勝利に拘るあまり、選手がミスを犯すことを恐れずに思い切ってプレーをしたり、大胆なプレーや作戦を試したり、ゲームをすることそのものよりも勝つことでしか喜びを感じなくなってしまうこともあるのではないか。高野連の興行にはもってこいなのですが、これが本当に高校球児の才能を伸ばすことに繋がっているのかは疑問です。もしかすると高野連に利用されているだけなのかも知れません。

高校生という段階を考えると、これでいいのであろうか?という疑問はずっと付きまといます。甲子園という舞台やそれまでの地区予選は、‘完全燃焼’を成す絶好の舞台を演出します。もし、エース級のピッチャーが一人しかいないところでは、エースは疲労困憊の中、連投を強いられていきます。力尽きて燃焼できます。しかし、高校生がそんな形で燃焼してしまっていいものでしょうか?今年も何人もの投手が地区予選から一人で投げぬいていました。疲れの色を隠せない選手が何人もいました。また、「通算~球一人で投げ抜いています」的なことを売りにテレビ人間は感動を煽ろうとしていました。そんなことを感動の材料にしてしまうのは、どう考えてもおかしいやろう。「感動」を勝手に押し付けていいものなのでしょうか?

結局は、駒大苫小牧のように複数の主戦級の投手を持ち合わせていないと勝ち進むのは厳しいですね。松坂投手級のピッチャーでないと一人では、中々難しいです。大阪桐蔭も一年生の中田選手をピッチャーとして上手く併用していたら、辻内選手も決勝の舞台に進めていたかもしれません。

個人的には「高校野球はいいなぁ」と思いながら、いつも「これは、いかんやろ」「なんとかならんのか」という相反する一種の悲しさや怒りも高校野球観戦にはつきものになっています。
by somaticcoach | 2005-08-22 00:46