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確かな情報

肥やしとなる情報は目覚めになる。
それが切欠となって、溢れんばかりに想像力・創造性が掻き立てられる。
確かな情報(インテリジェンス)は未来を象る。生命力を揺さぶる力を持つ。

空虚な情報は「あっ、そう」で終わり。何の感想もない。空虚なインフォメーションに溺れ過ぎないように。
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by somaticcoach | 2007-09-29 00:37

何となく浮かんだこと

あなたの「フツウ」は「ふつう」でない。
あなたの「アタリマエ」は「当たり前」でない。
あなたの「ジョウシキ」は「常識」でない。
でもね、あなたの「ワカラナイこと」は「悪いこと」でない。あなたの「カンガエ」を改めることは「負け」ではない。
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by somaticcoach | 2007-09-29 00:36

役立つ

人から頼られ、望まれ、必要とされる人になる。欠かせない人になれば食いぶちには困らない。お金持ちとか物質的な豊かさとかあるけど、人との豊かな関係がそういったもの全部もたらしてくれるです。関係の中で生きているということだから。
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by somaticcoach | 2007-09-29 00:36

コントロールとは

コントロールとは「調和融合」である。相互の関係で違和感を作らないことだ。それ以外にない。自分勝手に何かを制御することでないことにハタッと気が付いた。コントロールという表現が意味するものを、初めて軆で知った。これで、感覚を共有出来る者としか「コントロール」という言葉で会話を成り立たすことが出来ないということにも気が付いた。それでないと話が食い違う。

大方の人は西洋的発想のコントロールを固定観念で持っているだろう。西洋で言うコントロールとは、制圧・抑圧・抑制・禁圧だ。同じ単語でも文化によって全く意味が違う。調和融合へのコントロールこそ日本の感性の真骨頂である。日本の技術力がナンバーワンを誇れる所以ではないか。

野口体操の故 野口三千三氏が言葉を手がかりに体の営みを探求したように、言葉というものは軆を通すことによって実になるということを改めて感じる。
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by somaticcoach | 2007-09-28 14:46

戦わずして

戦わずして、豊かになる。戦わないとは、無駄な血は流さないように深い見識と智恵を持って関係して生きる。ミヤンマーでも無駄な血が流れた。長い歴史、人は成長していない。文明が高度になった分だけ、近代的な兵器を持つだけに余計に恐ろしさと野蛮性を増していく。

中国が見境なく工業化を進める。自国の規模を知っているのか、経済マーケットとしてしか知るはずもない。中国がこのまま邁進しては、地球の悲しみがトラウマに変わり、取り返しが効かなくなる。日本企業も一寸考えて欲しい。経済戦争に溺れないで欲しい。

笑い過ぎて流した涙より、悲しみで流した涙が多すぎやしないだろうか?
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by somaticcoach | 2007-09-28 12:23

感覚に欲張りに

私達は一般的に情報には過敏だが、感覚には身を閉ざしている傾向がある。
何もかも感じよう。享受してみよう。そこから思いもよらなかった世界が見えてくるかも知れないのだから。
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by somaticcoach | 2007-09-28 12:10

意拳

意拳という中国武術がある。本や雑誌だけで、一度も観たり体験したことがないから、それに関して論じる資格はないが、意拳で使われている表現に「体認」という言葉がある。私はこの言葉が好きだ。体を持って、認知していくこと。意拳の具体性は知らないが、目指すところは共通しているようである。いつか意拳を通して何かを体認してみたい。
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by somaticcoach | 2007-09-28 12:02

意識を捕まえる

何かやろうとした瞬間、軆は緊張し、呼吸が一瞬止まる。居付きの間ができる。空白の間ができる。何にも対処できない状態のポケットが出来る。

最近では人の意識が変わる瞬間を捕えることを観察しながら街を歩いている。誰もいない時は自分の軆を主観と客観に分裂させて、同時に独り二役をこなす。ほんとにただ単にどこかに向かって歩いていることはない。ずっと何かをテーマにして歩きながら遊んでいる。こんな風に気の赴くままに散って歩く、散歩が愉しい。
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by somaticcoach | 2007-09-28 11:56

向こうから来るもの

今何が出来るかを問い、それをやっていくと向こうからやってくるものがある。御縁というか、出会いというか、チャンスといったものだ。自分の力づくでは到底お膳立てできないもの。やるべきことをやっていれば、それに応じたものは向こうからやってくる。向こうが、こっちが準備できていると看做さなければ、そんな手を差し出すことはない。だから、お互い様で、お互いに美味しいはずなのだ。(むろん、今の世の中には人を喰ってやろう、悪巧みしている輩が少なくないから注意も必要であるが・・・)

そのチャンスを迎い入れれば、自ずとふさわしい人生が拓かれていくようになっている。何にもやってない人には、何もやって来ない。そういう人は何もやってこないことがふさわしいのだ。幸せな思いをする人は、それに値する人生を送っているからなのです。全部必然でしかない。ふさわしさがキーワードだ。ふさわしい:必ずしも幸せだとか、恵まれるとかいう意味に都合よく受け取ってもらったら困る。ふさわしさとは身の丈に応じたという意味だ。自分の身の丈に応じたものしかやってこない。

一時大金を稼げても、どん底に落ちぶれていく人も多い。それはそれで、その人にふさわしい。やっぱりなって人がそうなってしまう。

御縁なんて、謀じゃない。自分の範疇を超えた大きな力が働いて、廻り巡ってくる。もともと私達は親を選べないだから、人生もある種、謀じゃ収まりきれない。始まりが、無作為な必然。後の人生も無作為な必然だと思う。そんな中、出会ったものをツキに変えるしかないし、そのものをツキと思ってしまうしかない。チャンスなんてふさわしい人にやってくるのだから、迎い入れるしかない。自分で出向いて鷲掴みしようとするもんじゃないんです。
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by somaticcoach | 2007-09-27 12:25

テーマは自分で持つもの

治療というものは一方的にはできない。どんな状態を目指すのかを本人が持っていなければ、手助けの仕様がない。しかし、だいたい痛みを取りたいとか、コリをなくしたいとかという反応が来るに過ぎない。それだと非常に漠然としすぎているし、氷山の一角をどうにかしたいと言っているに過ぎない。その痛いことや凝ることで何が困るのか、本人が追求した具体的にテーマを持っていないと、物事があやふやだと、治すとか治さないというのが実体をおびてこない。それに痛みから逃げたいだけだったら、軆自身が発信しているメッセージから逃げているだけだから、軆は何をどうしたらいいのかわからないのだ。

テーマというものは与えられるものではない。自分が何に繋げていきたいのかというものを持って生きているものだ。セミナーを告知すると「どういうセミナーですか?」という質問が必ずいくつか寄せられる。こっちはこっちの力の範囲で言葉にして告知した。それ以上に「どういうものですか?」と漠に質問されても本当に困る。それに、これ以上情報を得てどうするのだろうとも思う。せめて、「こうこう云われていたのは、こういうことですか?」「私が求めているものは~です。このセミナーは何かの助けになると思われますか?」といった具体的に突っ込んだ質問をして欲しい。「どういうセミナーですか?」はバカにし過ぎた質問だと思う。「こっちの書いたことを読んだのかい?どれくらい読んだんだ?」会話で人の話を全く聞いてない人がしてくる質問に似ている。つまり、会話になっていない。要するにこっちが書いた告示文などちゃんと読んでもらえていない。

私の経験では、なんでもピ~ンッと来るもんだ。問題意識を持って生きていたら、もしかしてこれかな?ってレーダーに引っかかる。当たりか外れかわかんないけど、とりあえずそのとき「これだ!」って感じたものを信じる。あとは行ってみて品定め。だいたい、その時点で“当たり”になっている。心持がワクワク状態になっているから、いろんなもの吸収して帰ってこれる。「どういう~ですか?」なんて個人的には思ったことはないから、逆にこういう質問をされると困惑する。

一応返答は、告知した事を言い方を変えて返事する(私にはそれ以上言葉を持っていない)と、じゃあ受講させて下さいとなる。結局は説明が欲しかったんじゃないような気がする。その人の感に掛かったものにもう一押しが欲しかっただけなのかなぁと思うのだ。馬鹿な私は真に受けて、質問の返答に困りきっていたのがちょっと可笑しい気がする。
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by somaticcoach | 2007-09-27 12:24