<   2007年 04月 ( 32 )   > この月の画像一覧

三人組

レッスンでは敢えて三人組になってもらうことも多い。二人組だと自分達のやることに熱中し過ぎて、内観する余裕がない。だから、人を観察したり、観察してもらったりするように仕組んだ。しかし、物事は仕組んだ通りには行かない。第三者は垢の他人さんになる所も多い。こちらの意図は伝えていても、人の事には関心がないのか、最初から見ても判らないと決め込んでいるのか、どうも三人組の意味をなさなくなる。・・・・・・。

わからないから、わかろうと努める。観えないものを観ようとする。できないから、できるようになろうとする。いつから大人は、諦めっぽくなってしまったのか。自分達の子供にそのような教育をするのか。子供が「できない」と訴えたら、「それじゃ、もうやらなくてもいいよ」って慰めるのか。何度も何度も立つことに挑戦しては失敗する赤ちゃんに、「よせ、もう頑張らなくてもいいんだ」と立つことを諦めさせるのであろうか。それとも「もっと辛抱強く、やってみなさい」と叱咤激励するだろうか。自分に逃げ道を用意することは簡単に出来る。人を追い込むことは簡単にできる。

ようは本気でやりたいのか。本気で達成したいのか。その要求があるのかどうか。私にとっては、「わからない」は「わかる必要が無い、わかりたくない」であり、「見えない」は「見る必要が無い、見たくない」である。「覚えられない」ではなく、「覚える必要が無い、覚えたくない」のである。頭でいくら、そうじゃないといっても無駄。根っこの部分で、働いている衝動が決めている。「できない」のではない「できても意味が無いから、できる必要がない」。裡なる衝動が変わらなければ、学習能力は伸びていかない。自分を追い込むことは大事だと思う。

よく人は、締め切り前にならないと物事をやらない。追い込まれないとできないと言っている。期限直前に手を打って、まずい仕事をするのかと思うと、そうではない。意外とまともな仕事をやってのけるのである。人は追い込まれると、力を発揮していく。自分が思いもよらなかった能力を発揮して、ビックリすることも少なくない。その手の人が成長していかないのは、いつも受動的に追い込まれて動くからである。いつまでたっても、同じ習慣を繰り返すだけになっているのだ。これを逆手に取って、自分を普段からいかに追い込む方法を探らねばならない。私も追い込まれた方が力が出る。そして、それなりに自分を追い込む術を作ってきたが、まだまだ研究中である。そうするとグングン自分を引き伸ばしていくことができるだろう。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-28 01:43

一勝負

また海外勝負をしたくなってきた。といってもせいぜい一年を限定にしたい。半年や一年で十分だ。海外移住など今のところ眼中に無い。でも海外武者修行したい。自分の成長を測りたいのだ。今すぐというわけでない。機が熟すまであと数年は要ると思う。前回アメリカに居たときとは全く違う自分が居るだろう。ワクワクする。日々準備なり。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 19:50

感覚文化の共有

つい先日のレッスンで新発見を紹介した。私自身それを発見した時は、感動・感激のあまり眠れなかった・・・寝るのも忘れた程だった。

しかしながら、参加者は覚えるということに終始しているようだった。理屈をつなぎ合わせることに忙しそうだった。議論をするが体験を重視することはなかった。90分という時間が話し合いで過ぎていく。中にはただ呆然と立って見ている人もいた。身体を通して感じ掴むということを行わないでいた。レッスンの終わりには、スッキリしないと言われた。それは、体感できなかったからではなく。理屈が解せていないからであった。

明らかに私と参加者の間には溝があった。通い合うものがない。私は一人ぼっちになった気分だった。人と関わる時間にあって、一人ぼっちに感じるほど悲しいものはない。初めから一人ならば、一人ぼっちでも寂しくはない。最初から答えをあげると、それに納得して人は動かない。実際、私のレッスンでもその傾向がある。だから、あえて現実の実態だけを披露して、身体で思考することに励んでもらいたいと思っている。たとえ何歳の人を対象にしても、それが何年掛かろうが私は構わないと思っている。

昔の方は何も教えなかった。教えてくれなかった。習う者が身体を使って真似し、盗み、学び、練り、工夫していった。それが最高のレッスンの進め方かどうかは判らない。しかし、身を持って学ぶことは今も昔も最重要要素の一つだと考えている。自分の身体を通して発見した事や気づいたことは、本当にかけがえのない。それこそ財産になる。それが多ければ多いほど、自分を信頼できる、身体を信頼できる、生を、命を信頼できる。人から教えられたことを出来たって、大した感動にはならない。そりゃ、嬉しいかもしれないが、感動できるほどの代物ではない(少なくとも私にとっては)。

ひとつは、取り組み方の方向性が反対であること、もう一つは身体感覚を共有できないことであった。身体感覚が異なるところに言葉が通じない、想いが通じない、相互理解が深まらないことを改めて実感した機会であった。

全くの未熟ながらもこっちが何年も積み重ねたものがある結果、ハッとある時、発見、追体験できた事を、同じ位感動出来る人は、少なくとも同等の身体感覚の共有がなければならない。こちらの積み重ねに相当する何かを持ち合わせていなければならない。私には幸いにも、身近にそういうやり取りが出来る人が数少なくとも居る、ズッと先を行く先輩が居るということは幸せな事なのだろう。

一方、個人レッスンを受けている方、いくつぐらいの方であろうか、年配の方である。腕の挙上の仕方を提案したことがある。すると数日後、腕の上げ下げを練習していて、ハッとこれは日舞の振る舞いと同じだと感じたと言うのだ。昔、日舞を習っていてそれにリンクしたという。そして、「これは日舞の腕の使い方と同じですか?」と質問を受けた。私は「そうなんですよ。」と答えた。私自身は日舞自体には精通していないが、日舞と共通する身体操作は少しはわかる。あたし達の間には共通の身体感覚があり、そのために二人が通じ、コネクトされた。感動ものだった。これがコミュニケーションだ。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 18:08

無知

私は無知である。無知でありたい。知った被りや知ったつもりにはなりたくない。
知らないから訊き、聴く。躰にお伺いをたてる。「どないしたいの?どう、在りたいの?」すると、どの人の躰も「こうなの」と答えてくれる。こんな無言の躰話が好きである。話さなくてもわかるはずなんだ。響き合うものでわかるはずなんだ。多くの場合、言葉は身を隠すために使われる。知識は盾として使われる。言葉のやり取りより、よっぽど深いやり取りが利く。
無知の素敵さをわかっていない。勿体無い。素の良さに出会わず死んでいくものか。私はこんな世界を深めたい。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 14:46

受け身

転び方を知っているか?四方八方に転べるか?安全に転び身を守ることが出来ることは、大切な身体信頼になる。固く立つ人、固く歩く人は、自分を信頼していない。人は転びたくないのは本能だ。しかし、この原始反射が過剰に働くと身を固くしてしまう。滑らかに動けなくしてしまう。つまり、自分の立つ能力、歩く能力を無意識に疑っている、信用していない。

力んで立つ人・歩く人は転び方を学べ。「転んでもどうってことないや」という信頼を築け、そうすれば力が抜けて柔らかく立つ・歩くことが出来るであろう。そして、還って躰が安定するであろう。武術で受け身を最初に習うには、訳がありそうだ。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 14:07

苦言

思い込みの動きが如何に不細工か。躰の動きには必然性がある。躰には“なんとなく”というものは一切ない。そこを追求しているトレーナーやインストラクターはどれ程いるのだろうか。日本のスポーツや身体競技や芸能の世界にトレーナーが認知されにくい壁はそこにもあるのだと、どれくらいのトレーナー達が気が付いているのだろうか。求めているものが違うから噛み合うわけがない。勿論レベルの低い意識しか持たない選手達もいるだろうけれど。

創造的な、建設的な「否定」という言葉は持ち合わせていない。一部には妥協と諦め、誤魔化しのまかり通っている業界でもある。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 13:41

運動ではなく

。人が動く、表現することは単なる運動であってはならない。ただの運動はいまや機械でも出来る。何のための人なのか。せめて術にまで昇華させたい。湯呑を持つ仕草でさえ、歩き姿でさえ。佇まいが術。そんな存在に昇華していきたい。
そして、そこからに向かっていく。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 13:37

取り組み

「これをすれば元気になれますか?」「これと、週5回ここに通ってなんかすれば、体調が良くなりますか?」と初めて会った人に訊かれた。答えは「NO」です。健康雑誌や素人まがいの“トレーナー”達にからの情報だろうか、「~を週~回やりましょう」「腰痛には、これをすればいいですよ」と無責任なことを偉そうにいう。馬鹿じゃないの。それぞれの人のこと分からないで、そんないい加減なことを言えるもんだ。そういう人達がそういうことを広めるのは勝手だが、その火の粉がこっちに飛んでくるのには、ホトホト迷惑だ。

私がレッスンでやっていることを出来るようになっても仕方がない。そんなこと覚えなくたって、身につけなくたって、生きていけるし。幸せに生きている人はいくらだっている。運動が出来てもしょうがない。人としてレベルアップしなければ、自分の抱えている問題は解決しない。それを身体をヒントに探っていっているだけなのだ。だから、ただの運動と捉えても大して意味の無いのだ。つまり、日常に昇華されなければ、自らの血と肉にならなければ、全く意味を持たない。いくら機械的に運動をこなして行っても、人としてレベルアップなどしない。根本的な取り組みの構えが変わらなければ、永久に自分の身体を愛おしく思えるようにならない。という意味を持った「NO」だった。冒頭の方はこの説明を聞いて唖然として、しょんぼりしていた。

私は、何も通じなかったと確信した。素人まがいの健康者・健康物が無責任だと私は言ったが、この人に取っては、私の事を無責任に感じただろう。あの方はレッスンに通い続けるだろうか。しかし、あの方の生き方を知らずして、「YES」と答えるほうが無責任以外何者でもない。「週~回のエクササイズで~になれる」ほどいい加減なものはない。~になれたとしも、一時的な自己満足で終わる程度しかない。「腰痛にはこれをしましょう」とか「膝の痛みにはこのエクササイズをしましょう」ほど何を考えとんねんと思わざるを得ないものは無い。気休めが欲しいなら、私よりも適任者がゴロゴロ周りにいる。そちらの人に慰めを貰うがよい。私は本当のことをストレートに伝える。誤魔化さない、曖昧にしない。渾身の真剣向かい合い。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 10:24

備え

d0067505_9354812.jpg

何かを依頼されたときに「私はまだ準備ができていません」と断ったことがないだろうか。そして、その時点から準備を始めようとする。何かが決まってから準備を始めたのではもう遅い。スポーツや演劇の世界などは顕著である。レギュラーが怪我をして出られなくなった。そして、監督から「お前行けるか?」といわれて、「準備が出来ていません。」って言えるか?そんなこと言っていたら、もう終わりだ。二度とチャンスは巡ってこない。もうその世界で飯が食えなくなる。むしろ、駄目でも「自分からやらせて下さい」と名乗り出るくらいじゃないといけない。実はそれでもレベルが低い。本当に、パッとチャンスを掴み取ってしまう備えがなければならない。自分を分かっていれば、それが出来るはずである。

しかし、現実の一般の世の中では、「準備がまだで・・・」という言い訳が通ると、許されると思っている。「まだ出来ません。後でお願いします。」と勝手に自分の枠に籠もって逃げようとする者も少なくない。みすみすチャンスを手放す人もいる。「“後で”は無い」ということを知らない。よくもまぁ、そんな甘いことができるもんだ。それとも、よっぽど自信があって、必ずより大きなチャンスが来ると信じているのだろうか。

一般の世界でもチャンスなどいつ来るのか分からない。そのチャンスが来たときにスッと手を差し出し掴み取れるのかが当たり前に出来なければならない。つまり、準備というものは普段のあり方だけが築いていくものである。何かイベントが決まってから、始めるものは準備ではなく、溺れる者は藁をも掴む程度のものでしかない。普段から準備を創っているいる人が、イベントの依頼から行うのは、詰めの作業であって、準備ではない。なぜなら、準備はすでに出来ているからだ。

普段から創っていない人は、いくら最後の悪あがきをしても無駄である。マークシートの答えが出題者側から用意されたテストなら一か八かもあり得る。しかし、それは虚構のテストだということをマークシート教育で育った人には区別できないみたいだ。

私の少ない経験から言っても、チャンスというものは一度逃すと戻ってこない。チャンスを断るときは、覚悟を持っていなければならない。これを逃しても生きていけるという覚悟と狙いがいる。そのために、自分がどこに向かって普段の準備を創っているのか。準備は普段の在り様でしかない。チャンスは準備で、準備がチャンスだ。準備が広がれば、自ずとチャンスは拡大する。イベント待ちの受身でいると、いつまでたってもチャンスは広がらないばかりか、チャンスは縮小していく一方だ。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-27 09:35

発見ラッシュ

最近は発見ラッシュだ。驚くほど次々に躰の法則を発見していく。いかに今まで何も知らなかったことの裏返しなのだが、閃く躰を持ち、発見した事を自分の躰で体認できるようになってきた事が、何よりも大きい。この躰と閃きのきっかけを下さった方々に感謝したい。数ヶ月前に罹った病気を境に何かが変わりだした。一度、ゲッソリなってから躰が逞しく、繊細になってきている。一切ウエイトをしないにもかかわらず、体つきも知らず知らずに筋肉が太くなってきているというか、筋肉肥大は起こっていないが無駄なものが削ぎ落ちて筋肉が浮かび上がってきているようだ(良く言い過ぎるとブルースリーのような体になるのかなぁという感じである)。

数日前もエクササイズ界の全てといって間違いない・・・盲点を発見できた。これ知らず運動をするとますます罠にはまる。身が生涯成長し続けることはありえないのではないか。自分の躰でも実験を行い、師匠とも確認した。驚きは日本の作法はこれを踏まえて作られているということだ。日本人の観の目には驚くばかりである。

感覚・感受性が高まれば高まるほど、益々発見していく事が増えるだろう。そして、ますます躰は絶頂期へ向かう。ようやく過去の偉人の追体験ができているのだろうか。伝統を心得ない私には、今から始めるしかない。自分の躰の枠の外でも実験・検証したり、師と膝を突き合わせたり、出稽古に出かけたりして普遍性をテストしていかなければならない。躰実験・研究会を定期的に開きたい。
[PR]
by somaticcoach | 2007-04-25 00:31