気づき: Awareness in Action

ポートランドでは旧友に再会。トライアスロンを始めて泳ぐようになってから左肩痛に悩みだして1年以上たつという。

セミナーで習ったことを試してみないかと自ら実験台に立候補してきた。2~3のことを試したてまずまずの様子だが、ここで終わっては元に戻ってしまう。テクニックはテクニックである。なぜなら彼女のAwarenessのレベルは何も変わっていない。そこでうつ伏せになってもらって背骨のリーディングを開始。私がそこに感じたものをきっかけに会話を始めた。体のこと、心理のこと、生活のこと・・・。

内容は伏せるが、彼女の気づきに火がついたことは見て取れた。それに希望にも灯りが点ったのが表情の変化で見て取れた。これをきっかけに快方に向かっていけるという希望が。彼女自身本能的なもの(Intuitive)に興味を持っているせいか、食いつきが良い。何よりも自分自身が主人公となって、問題に取り組んでいこうとする勢いが感じられた。人にやってもらうのではなく、彼女の自分の身体の叡智を開いていこうとする姿勢はAwarenessやConsciousnessに働きかけるワークにはぴったりである。信じ込んだら単純なアメリカ人という性質にもぴったりなのかも知れない。

人の障害では、メカニカルな説明だけでは済まない。人はいろんなものを抱えている。彼女がPhysical Therapyを受けてきたが、肩は戻っていない。肩は自律神経、特に交感神経の影響を受ける関節の代表的なものである。そこが肩の障害の難しさであり、面白さである。野球選手が肩の障害が多いのは、メカニカルの問題でだけは済まない。アスリートには色んなUps & Downsが付き物である。選手自身それが肩にも影響しているということを理解して、自分のことに気づいていかなければ、問題は自己解決していかない。

気づきというものは非常にパワフルである。気づくことで身体は激変する。無理に問題を解決する必要はない。とにかく自分のことに気づくことである。嘘や取り繕いや見栄を張らず、素直に自分自身を見つめて、自分のことを気づいていくことである。自分の卑しさも、自分の良い所も何もかも。
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by somaticcoach | 2006-06-30 11:15

ガジェット好きなアメリカ人。アメリカ人も日本人に負けず、ガジェットを持ち歩いている。人の頭の上で携帯相手に大声で喋る馬鹿者、あちこちでパソコンを開いては何かをしている者、携帯ゲームで遊ぶ子供、携帯の機能で遊ぶ親子、Palmを相手になにやら操作をしている者。

私の記憶では、今のような携帯電話の普及は日本が先だったと思う。そんな物を手に入れると日本人は自分の内に籠もる。そういった「おもちゃ」を得て自分勝手になっていったが、もともと自分勝手民族のアメリカ人はガジェットを得ても、そんなに変わったところはない。

同じようなガジェットを使用していても違うことがある、礼儀である。日本人は礼儀正しいというのは過去の話。日本人は礼も尽くさなくなった。アメリカ人は単純な不注意には、ちゃんと「I am sorry」「Excuse me」「Pardon me」といった言葉掛けが飛び交う(打算的だから訴訟が絡むような事には、謝らないけれど・・・)。人と人がぶつかると、他人同士でもそれをきっかけにジョークが飛び交うこともある。「Thank you」という声も当たり前のように飛び交う。人がまだまだ交流をしている。日本にはそんな自然な交流が見られなくなっている。場を共有しても全員が完全に他人化している。電車の中で人を観察している面白い。何人人がいようともまったく接点がない。みんな必死に無視し合うことに精を出している。ガジェットを得て閉鎖的になる国とガジェット得てもそれなりの国。

西海岸のドライな気候から帰ってきて、関西空港から足を踏み出すと、重苦しい気分になった。空気が湿っていて重い。これでよく息ができるなぁ。排泄機能が滞ってしまう。皮膚もべったりして外界との交流も取れない。これではますます日本人同士の交流は難しくなる・・・・。この時期はガジェット使用禁止かガジェット使用制限を制定してはどうか。そして、代わりに、積極的に汗をかきましょう条例を制定してはいかがか。身体を開いて、オープンになって行こう。
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by somaticcoach | 2006-06-30 10:48

アメリカに飛び立ってきた。久しぶりに見る景色には珍しさを感じなかった。長い間見慣れた景色には、慣れを感じていた。

しかし、上級のセミナーに参加したのは楽しかった。費用も上級に至るまでの時間も相当掛けてきた人たちの集まりだったし、誰もがこの道で成功を収めていて更なる飛躍を目指している志の高い人の集まりだったので、とても楽しかった。初級、中級、上級と参加した中で、今回ほどエネルギッシュな人の集まりはなかった。ここまで賭けてきた人の集まりだったならではだと思う。私自身の講座でもこういう人の集まりを惹きつけられると、一段と違うものがあるだろうと感じた。

ただ私の身体は適応障害なのか、時差ボケがまったく取れず、体感時間は日本時間のまま、中途半端に向こうの時間の流れに無理矢理合わしていたために、今は身体がガタガタの状態に陥ってしまっている。身体がすっかり混乱していて、何がなんだかわからない。

日本の流れに合うようになるにはしばらく掛かるだろう。

今日そのボケた状態で、レッスンを行った。大入り満員でエネルギーに漲っていた。そのエネルギーに便乗させていただいた。初めての人が多い中、皆さんの身体は積極的に解放と快放へ向っていた。私は地道に解放・快放に向わせて頂くとする。

年に数回トラベルするのも悪くない。旧友にも会えたし、セミナーは刺激的だったし、私が普段やっていることを紹介すると、そのことにも興味を持ってもらったから、これからが楽しみだし。来年はもう1~2回渡米機会を増やせるようにしてみたい。ただ、また向こうで暮らしてみたい気にはならなかった。
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by somaticcoach | 2006-06-29 16:34

声は何の為にあるのだろうか?
みんなは何のために喋っているのだろうか/話しているのだろうか?
声は自分だけのものだろうか?
声は生きているのか、死んでいるのか?

日曜日のSCPTPで声のレッスンをやった。非常に面白かった。少しだけでも、みんなが自分の声がどんな生き物か、あるいは死に物かわかっていただけたようだ。声の変わり様を皆で楽しんだ。声の変化は呼吸の変化、身体の変化、心の変化。「私」という存在そのものの変化。そんな変化を楽しめたレッスンだったと思う。

皆にとってこのレッスンはどうだったのだろうか?
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by somaticcoach | 2006-06-20 00:10

見送り

最近毎日夜遅くの帰宅が続いている。一週間以上そんなことが続いているせいで、身体がクタクタモードに入っている。ちょっとやな予感・・・、気を緩めると確実に風邪を引くなというのがわかる。ほんとだったら気を緩めて、コロッと身体の調整のために風邪を引いてやろうと思うところだが、明後日は渡米の日。今引いてしまうのは、ちょっと困ってしまう。身体には申し訳ないが、頭を優先してしまわなければならないのがつらい。怖いのが飛行機の中。あの悪い環境で、一気に風邪を催しそうな気がしてしょうがない。

向こうに行っても、時差を無視して強行スケジュールで動かなければならない。のんびりモードに慣れてしまっているので、果たして耐えられるのか・・・。

「気をつけて行って来てね」
「楽しんできてね」
「土産話を楽しみにしているね」
「上手くいくことを、祈ってますね」
みんな、向こうで良い時を過ごして来てねという想いが伝わってきた。

でも、こんな言葉もあった。
「ちゃんと帰ってきてくださいよ」
これには正直気分が良くなかった。私のクライアントの一人からの言葉なのだが、あなたが帰って来てくれなきゃ、私は困るのよという想いで発していた。前にも、後にもほかの言葉があったわけではない、この言葉だけ繰り返し言うのであった。もういい。帰ってくるから、黙っててくれ。

黙って手を振って送り出してくれるのが、いと嬉し。
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by somaticcoach | 2006-06-20 00:02

重さがわかるということ

私がメディスンボールで遊んでいると私か寄せていただいているところのスタッフ一人が近づいてきた。私はボールの重さに身を任せて、ボールに引っ張られて操られていた。彼女にボールをトスすると、彼女は普通にボールを受け止めた。「ちゃうねん、こうなるねん。」と言ってボールをトスさせた。再び彼女にボールをトスするも、普通に受け止めるだけだった。

彼女にこう言った、「重さがわからなきゃ、身体がわからんで」。人は体重というものを気にする。アメリカでも「~で~パウンド減った」とかいうコマーシャルやそれを謳い文句に商品販売を展開するインフォマーシャルが、これでもかこれでもかというようにテレビやネットや雑誌に登場する。しかし、人は体重数値という情報の上下に一喜一憂しているとしか思えない。

頭社会先進国のアメリカでは、食そのものを楽しむのではなく、健康情報を食している。「ヘルシー」という言葉に右往左往している。どこかの専門家が「これはヘルシーだ」といったらそちらへ靡き、別の専門家が「これこそ健康食だ」と言えば、それに押し寄せる。彼らは、情報好き。だから、彼らから独自の食文化が育つことはない。日本も健康お宅化して、そんなアメリカの現象を追随している。

体重も情報化している。体重計に乗って、減った増えたで一喜一憂している。体重計に乗って数字を見なければ、自分の重さに関わることができない。身体にとって重さは数値、つまり情報に過ぎないのだろうか。それとも実感を伴った現実の話なのか。自分の重さを把握しているということは、どういうことなのか。重さというのはもっともわかり易く身近な物理現象だけに、自分の重さがわからないということは自分の身体を掴むことはできないのではないか。

前出のスタッフの様子をみて、私は皆ウエイトトレーニングしてるけど、ああやって重さに抵抗して、身体で重さを感じなくなるように、そして身体を鈍くするために、せっせとウエイトを持ち上げているんだなぁということがわかったような気がした。
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by somaticcoach | 2006-06-16 21:51

感受性(核芯)に届ける

人によって感受性が違う。同じニュースでも人によって受け取り方が千差万別である。

最近多い殺人事件でも、人によって受け取り方が違う。
犯人のことを思う人、被害者を思う人、被害者の家族を思う人、事件の起こった地域を思う人。
事件そのもの経緯に関心を持つ人、事件にいたるまでの事(過去)に関心がある人、事件が起こってからの事(未来)に関心がある人。
事件の展開(いつどのように起こったか)に関心を持つ人。犯人の心理に関心がある人。事件にまつわる人間関係に興味を持つ人。容疑者の裁判に興味を抱く人。

一つの事件と言う事実から、感じることが人によって違うのだ。これは人それぞれの感受性が成せることなのではないか。

トレーニングにしても身体調律にしても、この感受性に届かなければ本質的な変化に繋がって行かない。だから、画一的な指導内容や指導方法でいいわけはない。コアが大事だからといって誰にでもそのエクササイズしてもらってもしょうがない。ヨガやピラテスが良いと聞いたからといって、誰にでも効果が出せる手段とは限らない。そう、これらはあくまでも手段であるということを忘れてはならない。手段には絶対はないのである。その手段を持って、どう感受性にコネクトできるかが大事だ。それを分かっていないトレーナーと呼ばれる方は、テクニックや知識を磨けばなんとかなると思い込んでいる。誰にでも同じ事を指導している。それのどこが「パーソナル」トレーニングと言えるのだろうか?「パーソナル」と言い得るのは、クライアントの感受性に働きかけることができて初めて使えるサービス名であることを忘れてはならない。

人それぞれ根本にある身体の感受性というものがある。それが心理であるとか、精神であるとか、行為などに映し出されている。クライアントが水を得た魚のように成長していくには、感受性に気づいて、そこに積極的に、肯定的に働きかけていくのがもっとも早道で、確かな道で、継続していく道だという。

一昨日のGait Observation Dayに観察していたものは、この感受性に他ならない。バイオメカニックス的な観察は最初の取っ掛かりだけに過ぎなかった。そこに人の感受性がどのように現れているのかを観察していたのであった。身体を看させて頂くと正直にその人の感受性が現れている。私自身ほんの入り口に経っているに過ぎないが、芯を付く指導していくという面白さを体験し始めている。
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by somaticcoach | 2006-06-15 12:17

Gait Observation Day

昨日は外で数時間みっちりと人が歩くのを観察していた。
ざっと100人や200人の歩行は観察し、その分析をノートに記録しただろうか。

一日でもじっくり人を観察していると普段人を観るときに見落としていることや、見えていなかったことが一杯見えてきてとても勉強になった。普段、ただなんとなく歩いていることがとても勿体無いと思った。

多くの人を観察していると、歩く姿を通して、それぞれの人の内面で何が起こっているのかも知れないことが見えてくるようであった。それぞれの観察を本人に確かめていったわけではないので、私のはあくまでも推測の域を脱しない。が、このような直感が人を指導するときには大事なんだよなぁ。何も無いところから始めるよりも、相手と面した瞬間に検証すべきいくつもの仮説があると、とりあえず始まることができる。じっくり人を見ると表面的な姿だけではなく、どれくらい疲れているとか、どの背骨にくたびれが来てそうだとか、その人となりが見えるようであった。

私のノートはぎっしりとメモが記録され、歩行検査の案や、体癖と歩行の特徴などなど。時間を忘れて観察していると、あっという間に時間が過ぎて予定に遅れそうになっていた。

人を観ることができていなかったことが再確認でき、収穫のあった一日だった。
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by somaticcoach | 2006-06-14 15:46

トレーニング要るの?

書。筆跡一つ、人となりを現す。だからこそ、日本文化は生活の一挙手一投足そのものまでも美しさや芸術性を追求していったのではないか。人を創るのは、日常であると強烈に分かっていた。その上で習い事があった。

こういう所は私が観てきたアメリカとはまったく異なる。アメリカ人の多くの筆跡は酷すぎる。本人しか読めない暗号字を人に読ませる。いざ「まとも」になるには、アメリカ人はエクササイズやトレーニングを必要とした。

今の日本人にエクササイズやトレーニングの需要が多いことは、必ずしも喜ばしい事ではないと感じる。私は日本人である。アメリカの真似をして、頭でっかちになるつもりはない。私はただからだが喜ぶから動き・感じている。そして、その感動を深めていくことが快いから行を行っているだけである。私にはエクササイズもトレーニングもない。生きるということしかない。

SCPTPというトレーニング事業を行っている私自身がこういうことを言うと矛盾しているようだが、ある種冷めた目で見ている私自身の中では矛盾していない。
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by somaticcoach | 2006-06-13 13:51

共通項

自我主張の強くなってきた世の中では、やたらめったら「違い」を強調する。でも、「私達って、そんな違うの?」って疑いたくなる。確かに一人一人はユニークなんだけど、ほとんどの人が手が二本、足が二本しかない、頚椎から腰椎まで24本しかない(例外あり)。そういったことも含む共通項を認識できているのかな。動作を例に取ると、そういう共通項があるから、様々な動作を表現できたり、鑑賞できたり、感動、共鳴できたりするんだけどな。

日本に帰国してみると人気男性グループが「No.1じゃなくてOnly Oneでいよう」みたいなことを歌っていて、その歌が異常なほどにヒットしていたんだけど、Only Oneでいることの責任だとか、そこにある孤独さとか、難しさというものをわからずに、キャアキャア言っていたのは間違いないと思う。「自分は自分。しかも、偉い。他の人は馬鹿」のような解釈をした人が多いように思う。そもそも戦争に負けてからあっさり独自の文化までも無条件降伏してしまった民族が、どうしてOnly Oneを理解できるのか私には皆目見当つきません。そこを取り戻していない私達だから、所詮Only Oneを履き違えて、意固地傾向になったり、排他的や対立的傾向に走ったりするんだよな。

「私は皆と違う、違うんだ」って主張するのはいいけど、何が共通しているのかわかっているのかね。私達がどこから来て、何を共有していて、どういうことがシェアでき、どう和していくことができるのかってことが根底にないと、真の特異性なんては育ってこないと思う。いかがなものでしょうか? (Am I wrong?)
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by somaticcoach | 2006-06-09 12:40