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みんな素直!


某カルチャーセンターでSomaticsを行ってきた。平均年齢は高く、デイケアーセンターなるところかも、スタッフの方が付き添って、参加された方もいらっしゃった。皆さんカラダを酷使してきた、あるいは酷使進行中の経験を持つ方ばかりだった。

そういった方ばかりだったので、今日は気持ちのいい動きを中心にしましょうということで、Somaticsのコアである無意識の調整運動(『Pandiculation)でプログラムを固めた。快感覚はSomatic Intelligence(カラダの智慧)であり、Innate Intelligence(生れ持った叡智)であり、それに従っていればカラダは頗る快調であり続けてくれる。

導入説明とデモンストレーションを済ますと、早速各自でやってもらうことにした。

恥ずかしさからちょっと躊躇いの表情を見せていたが、『皆が同時進行すれば、誰も自分のことを見る人はいないので、気にしないで下さいね。』というと、そこからは、「無意識運動」「自由演舞」「快さを頼りに」「快さでカラダを充満して」と言われても、誰一人困惑した様子もなく、忘れかけていたカラダの快感覚に耳をすませカラダをオープンにして、身に委ねている様子が見て取れた。

カラダの裡なる要求に身を任せて、何にも囚われることなく、自由演舞を行ってもらった。さすがに人生のベテラン、カラダを誤って使い込んできているものの、感覚の経験も豊富に持ち合わせているのであろう。言葉やタッチで誘導をさせて頂きながら、戸惑うことなくカラダの気持ちよさを探す小一時間半の旅にお付き合い戴いた。

皆さん微笑んで教室を後にされた。中には、大きな欠伸をしながら眠たそうな目を擦って帰っていかれた方もいました。そのまま熟睡したかったに違いない。That's Priceless.
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by somaticcoach | 2006-01-27 19:04

年齢

年上は敬うものとは決まってはいない。しかし、日本語には敬語というものがある。なぜなんだろう?

そもそも敬語というのは、階級性などによってお役所的に授けられたものではないと思う。昔日本にも階級性が布かれていたが、これが敬語の由来の理由ではないと推測する。なぜなら一般庶民の間にも用いられていたのだから。言葉というものは生き物であるから、日本の風土の中から自然と生まれてきた言葉遣いに違いないと思う。とうことは、その言葉遣いが生まれた背景には、年上の存在は下の者にとっては、自然と敬意を払えるすごい存在であったのではないか。

特に、ここ数ヶ月~半年にかけては、私はこの人には敵わないという方に多く出会っている。さすが人生の先輩と無条件で敬意を払わずにいられない。

年=見識があるとは限らないのが現代ではある。つまり、ただ単に年(年月)を経過させている人達が多いのが現代と思える。幼稚な熟年者が増えている。だから、自分を若く思わせたく、年齢を誤魔化そうする馬鹿な人間に出会うことも少なくない。

しかし、年とともに成長をしていく昔気質の生き方をしていた時代にあっては、年上には敵わないはずである。年は人の年輪を意味していたからだと思う。生きるという叡智、職人や武道の達人にいたっては技は年輪とともに冴え渡ってくる。年長者が師や長として君臨するのは年功序列だからではなく、今まさしくその人が年齢に相応しい人生の旬を迎えているからである。器が違う。そういう世界の者だけではなく、一般の家庭の中にもおじいちゃんやおばあちゃんが色んな事を教えてくれたものである。子供ながらに祖父・祖母のお話・知恵・日常生活の技には深みがあって、その懐の深さを凄いと素直に感動していたのを記憶している。そういった自ずと敬える人生の先輩が身近にいた。だから、自然と敬う心と敬いの表現法を学んでいくのだと思う。

昔ながらに普通に生きていたら、年というものは大きな経験の違いを意味し、熟練の技や知恵を持っているだけに、暗黙の了解で年上は敬うべき存在と認められたのだと思う。誰に対しても敬いを払うことは大切ではあるけれども、決して、社会一般の常識として押し付けられて厭々従う風習ではない。

20代や平成生まれの子達以外で、社会を悪名で賑わす中心となっているのは30代、40代、50代の人達。若者が身近に敬うべきロールモデルを持てなくなってしまって、道を踏み外してしまうのも必然に思われる。誰もが年相応かそれ以上のものを発揮して、師の道標を引き継ぎながらも、自分の道標を後世に引き継いでもらえるようでなければならないと感じている。

自分の年齢に嘘をつかない生き方をしていなければならない。年齢はただの年月の経過ではなく、本当にこの人が深みのある・奥行きのある人間かを表す測りになる。

身近の師と仰ぐ人生の先輩に、感謝。お蔭様です。
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by somaticcoach | 2006-01-26 22:07

自然の法則(4):柔構造

本当に力を発揮するのは柔構造か硬構造か?
中身が空洞の鉄パイプと中身の詰まった鉄棒の強度はどちらが上なのか?
鉄パイプのほうが鉄棒よりも2倍の強度を持っている。

今世間を騒がしている耐震強度偽造問題で、鉄筋が何本入っていなければならない、柱がどうなっていなければならないという基準に反しているということだが、そもそも今の建物の構造そのものがよわっちいのである。だから基準というものを決めて、いかに自然の力に対立する力を備えるかってことになっている。でも、本当に自然の力に対応しているのだろうか?人間が勝手に震度7くらいまでの力に耐震できるようにと決めている。自然の力ってそこまでなのだろうか?それ以上のものが来るとどうなるの?自然の力って計り知れないのではないか。自分の都合やつもりが社会では全く通用しないということが分かっていないから、震度7までが基準であるとか、震度3までの耐震構造にしかなっていないというここになってしまうのではないか。あのような基準は、適切のようであって、まったく的外れの立ち位置にあるように思う。「鉄筋何本」というのは、自然事は何もわかっていないよって言っている様に聞こえるのである。

硬構造という対立する構造を作り出して、いかにその場に居着いて、固着・固定するかって事を目指している。これって、根本的に自然の法則に歯向かってしまっている。「硬さが強い」と勘違いした人間の愚かさだ。せっかく頭脳を使うギフトを与えられているのに、間違って頭を使ってしまった表れだ。

昔の人は自然と調和するということ、自然に畏敬の念を持ち、自分達も自然の一部に過ぎないといったことを知って、それを具現化して生きていた。伝統的な日本建築は木造建築で、釘を使わず(固定せず)、継手も蟻掛けにして遊びを作った。意図的に緩みや不安定を利用し、柔の強さを実現した。木の性質やこの遊びが柔構造を生み、力を発揮したり、吸収するのに理想的な構造になる。木造ではビルという建物を本当に作り得ないのであろうか?鉄筋ビルや現代の建築様式は固まりすぎていて、コストダウン・危険誘導の構造に思えてならないのである。

こういった柔構造は自然の中に共通している。つまり、自然の法則である。身近なところで人体を例にとってみよう。
人体も柔構造である。解剖学で誤って硬構造と分類されている骨も柔構造である。骨は柔らかい。骨も中身が空洞で、力を発揮したり、力を吸収したりできるようになっている。継手である関節も、ネジやピンで留められているわけではなく、遊びがある。この遊びがあるから、関節も柔軟かつ強いのである。柔構造であるからこそ、たとえ200kgや300kgの肥満児になっても、なんとかカラダを支えることができる。こんなに身近なところに手本があるにもかかわらず、何もわかっていない。カラダは柔構造であることを知識ではなく、実感として掴まないと、世の歪みや緊張(固定)の構造が見えてこない。
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by somaticcoach | 2006-01-19 16:10

馬鹿ばっかり?

Livedoorが風邪を引けば、日本市場が大きく揺らいだ。
大日本株式会社(日本)と日本株人の脆弱ぶりを世界に披露した。
同じ日本人として、Livedoor一社のことで日本株人のアタフタぶりには、情けないこと限りない。
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by somaticcoach | 2006-01-19 15:36

原点

『無』への道とは。最近、ずっとこの言葉が頭を離れない。最近手にする本は仏教書の類ばかりだし、今のところ私が引かれている道は『解脱の境地』であることがわかってきた。動作もそうであるが、生死の在り様も引力に委ねていきたい。

自分の部屋にて思い巡らせてみた。
最近は物への固執はしなくなった。例えば、衣類もここ1~2年新しいものを最近買った覚えはないし、装飾品には全く興味もない。使用しているものは誰かのお下がりか譲り受けたものがほとんどだけど、必要ないものは貰わない。しかし、私の部屋はどうしてこんなにも雑多な感じがするのであろうか。

本や書類や視聴覚系の資料などがごった返している。床を埋め尽くさんばかりの様々なジャンルの本や書類、既存の本棚には収まり切らない。明らかにそういったものには固執していて、手放すことができないでいる。そのような資料が自分を支えている感があり、それらがなくなってしまうととても不安になってしまう気がする。情けないかな自分の身一つ持って、『これが私です』と言い切れる度胸がないようだ。何かに縋っていないと落ち着かないようだ。本を集めることに走って、自分を磨くことを忘れてはいないだろうか。ゴルフをする人はゴルフクラブ(いい道具)を磨くより、腕を磨かなければならないように・・・。本当に裸の自分に価値があるのだろうか?

これでは、無の境地には到達できないのは明らかだ。物への執着や物を買い集めることは、非常に発想も精神も貧困なように思えてくる。テレビで大富豪の贅沢な着飾った家を見るより、NHKか何かで、寺院の間を窺うほうが非常に豊かな気分になる。ほんとうの贅沢って、やっぱりスペースだと思う。スペースを馬鹿みたいに埋め尽くすことではなく、そのスペース自体を満喫できる精神を言うのだと思う。

1月17日。今日は、被災者達と共に地元神戸での震災記念の祈祷を行った。一瞬にして、自然の力によって身を剥がされ、生まれたての赤ちゃんの時以来初めて、身一つで「生きてみろ」っていう天からの指令を受けた人が数え切れない位いたのが、11年前。その天からの声をバネに生きてきた人も多いと思う。しかし・・・

すっかり神戸の街を見回しても、物で溢れ、物で埋め尽くされている。崩れ去った家屋の跡にできたスペースには、塊としての近代的な建物ばかりが並べられている。そこには自然と調和・共鳴していこうという謙虚さはなく、人の征服欲の塊ばっかりの街に戻ってしまっている。それは、貧困な精神の象徴であって、真の豊かさや豊かな空間(スペース)が感じられない。来月には不必要な神戸空港が開港するし・・・。本当に私の原点は生まれ育ったこの街にあるのであろうか?いいや場の問題だけではない、私自身原点に戻らなければならない。裸の自分に。何も物質的な付随物がなくても、我ここにありと毅然と存在できる自分に。
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by somaticcoach | 2006-01-18 01:37

言霊技法

カラダは言葉に反応する。言葉で活殺自在である。
言葉でなくとも日本人の基本五韻--あ・い・う・え・お--適切に投げかけていくだけでも、カラダは整っていく。カラダが音に響き、カラダの芯からすっきするので、とても気持ちがいい。響かないカラダにも、響かすように投げかけていくことでカラダが開いていく。
最近のMy boomの一つ:「あ・い・う・え・お」でカラダを整える。

「五」という数字はカラダの規則性によく絡んでくるマジックナンバーの一つであると言っていい。
日本語か五音を基礎とすることは、日本人が優れた民族である証明の一つであると思っている。
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by somaticcoach | 2006-01-14 23:02

気象変動

自然界がバランスを取りたがっている。

明日は3月並みの気候になるらしい。気象の変動が激しいみたいだが、それは自然が自身を調整したがっているからだと私は見ている。それほど大きな変動をしないとホメオスタシスを成し遂げないからではないか。言ってみれば、人が大病に罹ったのと同じ。大病を経過しないと、元(バランスの取れた状態)に戻れないところまできていうるという推測も立てられる。下手するとこのままズルズルいって命の終わりや世の果てを迎えることになるのであろう。雪の影響で命を落とした人も沢山出ている。自然はある命を献上させて、私たちに知ってもらおうとしている。自然がそこまでしても、私達は気づいていない。ただの地球温暖化の影響による異常気象としか思っていない。実に浅はかだ。

なぜ私たち人間には他の生物と異なり、膨大な意識や記憶や学習や言語の力を持てるようになったのであろうか?自分なりに考えてみたことのある人はいるであろうか?

それは自然が自然の事をわかってもらいたいためではないだろうか。安定した自然界を維持してもらうために、人間にその役目を託したのではないだろうか。賢さを与え、宇宙のことを理解することの使命を授けた。

私が考える自然の思惑とは違い、私たちは利己主義に走った。勝手気ままに世を征服することに邁進している。大きな誤算だったのかも知れない。でも、幸運にも私達の脳は90%以上未開発だと言われている。進化の駆け出しにすぎないのだ。これを賢く開発していければ、これから自然界も立ち直っていけるかも知れない。

こういった変動がどれほど続くのかは、神のみぞ知るところではある。しかし、黙って待っていればいいのではなく、自然の一員として私たちが何かをしなくてはならないと思う。それだけの使命と能力を与えられている。

みんなお蔭様で生かされている。大きな自然の怒りに耳をすませてみよう。みなさんにとって退屈かも知れないが、何を議題に挙げても私の結論はいつもここに行き着いてしまう。・・・・・ある意味、もうブログを書き続ける意味はないのかも知れない。
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by somaticcoach | 2006-01-12 21:05

『日本一思いガムテープ』(Click here)を観て、テーピングや皮膚刺激について考えて見ましょう。

『日本一思いガムテープ』のところをクリックするか、こちらのアドレス(http://omosiro.web.infoseek.co.jp/doubutu/gamutepu.html)に行ってください。

馬鹿テレビが言っているようにガムテープが重いわけではないんだけど、皮膚刺激がどれだけカラダの働きに影響を及ぼすかってのを猫が非常に素直に表現してくれています。
人のカラダに無闇にテープを貼るってことが一つ間違えると、体機能を阻害しうるってこと、また反対に上手く利用すれば促進できるってことを学ぶきっかけになる面白い映像だと思います。人は感受性が鈍いところがあったり、体機能以外の価値が重視され簡単に皮膚に穴を開けたり、いろんな物(装飾品など)で体を飾るところがあるから、顕在意識でテーピングやカラダに付ける物の繊細な影響を感じ取れていないところがあるけど、潜在意識にはこの猫が表してくれているような影響がバンバン働いているわけですよ。

四つのケースともに猫の生体反応は、ある反応パターンそのものでした。ということは猫にとってあのガムテープは、そういうことだったのかということが推測できます。

このビデオを見ての感想を募集しています。ただ面白かったというのは無しですよ。しかと観察して、何かを感じ取ってくださいね。
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by somaticcoach | 2006-01-12 10:23

これは

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清原選手の自主トレのスナップ。この練習法から見ると、清原選手が居るのはあの方(Kさん)のジム。せいぜい、格闘家に向けて筋肉マンになってくださいと思わず口走ってしまった。各方面での活躍をお祈りしています。近い将来には違った形で下柳(現阪神)vs.清原(現オリックス)の戦いを見ることになるんのではないかと危惧してしまうのは私だけでしょうか。
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by somaticcoach | 2006-01-11 22:53

腕の脱力

今夜の武道の稽古中から両腕が完全に痺れて力が入らなくなった。これが脱力かぁと思い腕を振ってみると、今まで脱力と信じていた放腕の型稽古はまったくの思い込みで、やっぱり筋肉さんが動きを作っていたことがわかった。

腕が痺れているもののなんと心地がいいのだろうか。右腕はほぼ正常???(通常だな)感覚に戻ったものの、左腕の痺れは3割位まだ残っている。入れたくても筋力が入らない、つまり無駄は一切ないために左肩はすっかり下がって、あるべき場所に落ち着いている。右肩はおそらくいつもの位置、こんなにも無意識の緊張をしているのか、脱力できればこんなに違うのかと感心した(普段は私の左右の肩の位置はそんなに大差はない)。

こうしてキーボードをタイプしていても指が定まらない。痒い鼻をかこうと思っても鼻ではなく目に左指は向かったり、脱力しているため手が益々加速して顔に向かっていくために、強く顔や目をはたくことになったり。家に着いてドアを開けたとき、力加減ができず脱力腕の横振りの勢いのために、ドアを壊してしまうんじゃないかと思うほどだった。ここに筋肉が必要なんだとわかった。動きの微調整をしたり、動きにブレーキをかけたり。これなら突きも相当威力があるはずだし、誰かに腕を掴まれても簡単に往なすことができそうである。相手も掴み所がないと感じるに違いない。でも加減ができないから、人を簡単に傷つけることになるかも知れない。

この感覚を忘れないように、何度も放腕を繰り返した。いち早く痺れが引いた右腕はもうすっかりアホの腕に戻っていた。アホ過ぎて付き合いきれず、とにかく左の脱力感覚を植えつけることに集中した。まさに左は痺れているものの賢く思える。この感覚を肌で覚えられれば、痺れが引いた後、アホの腕に戻ったとしても、目指す行き先がはっきり見えてくる。今までの思い込み稽古の何倍も密でレベルの高い稽古ができる。

ひょんなことで痺れだした腕様に感謝。
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by somaticcoach | 2006-01-11 00:23